莊寅亮:我是如何解密豐子愷“絕筆”的
私はいかにして豊子愷「絶筆」の謎を解明したのか
有的人高砌石碑,
只爲自己名揚四海;
有的人甘做碎石,
壘起做人的大愛
……,……
百姓心中的豐碑,
啊!——豐子愷
————題記
ある者は石碑を高く築く
ただ自分の名が広く知られるように
ある者は進んで石を砕く
心ある人々の大きな愛を積み上げる
…………
庶民の心の中の豊碑(訳者注:大きな石碑、偉大な功績)
ああ!——豊子愷
——題辞
早就想寫這篇文章了!自去年由中國漫畫奠基人豐子愷幼孫豐羽主編的《豐子愷家書》公開發行後,一股“豐迷”熱潮隨之而來。豐羽等人每次被邀請去作該家書報告交流後,總會被現場熱心讀者簇擁請其簽名留言。
ずっとこの文章を書きたいと思っていたのです!去年中国漫画の創始者豊子愷の孫である豊羽さん主編による『豊子愷家書』が出版公開されると、「豊ファン」ブームが沸き起こり、豊羽さんたちは出版報告交流会に呼ばれるたびに会場で多くの読者に取り囲まれサインやメッセージを求められることとなりました。
筆者也常接到素不相識的讀者,通過各種途徑傳來的信息,對《豐子愷家書》中附錄二《豐子愷“絕筆”之考究》提出各種相關問題。讀者在對豐公逝世45年之後解密了這幅“絕筆”甚感欣慰的同時,希望筆者把這個解密過程詳細地聊一聊。
承蒙上海名記者袁德禮的厚愛,他利用各種公衆場合,在上海文化界、新聞行業和各界名流圈子內,大力宣傳豐子愷家書中的人文思想,幷多次催促筆者把在解密“絕筆”中的思路和方法用鮮活的文字寫下來,與讀者一起分享,讓豐子愷的形象永駐在上海市民的心間——他,率直、和善、謙遜,曾用手中的筆,通過藝術化的綫條,把百姓生活中的喜怒哀樂一一展現出來,社會各界大衆永遠懷念他。
對各方幾經催促,筆者有了動筆的念頭,儘管文筆淺陋,主要是回復讀者解惑之問,同時把豐子愷這幅“絕筆”在考究之外的補充,留給社會上相關人士做更深入的研究之參考。
筆者も、会ったことのない読者からさまざまなルートを通じてメッセージをいただき、『豊子愷家書』の付録2の『豊子愷「絶筆」の研究』に関して様々な質問が寄せられました。豊先生が亡くなって45年にして「絶筆」の謎が解けたことを大変喜んでいただいたと同時に、私に解読の経緯を詳しく語ってほしいというというものでした。
上海の記者である袁徳礼さんにはご厚情を賜りました。各種の公の場を通じて上海の文化界や報道業界に向けて大々的に『豊子愷家書』の持つ人文科学的な思想を宣伝していただきました。合わせて筆者に対しても豊子愷「絶筆」の謎を解明するに至った思考過程や方法を生き生きとした筆致で文章にし、読者と共有することで、豊子愷の人間像を上海の人々の心に永くとどめさせておきたいのだと何度も催促いただきました。豊子愷の率直で、温和で、善良で、謙虚な人柄。手にした筆で芸術的な描線を描き、民衆の生活の中の喜怒哀楽を表現してきたこと。これらを提示することで社会各界の大衆が彼を永遠にしのべるようにと。
さまざまな方面からの催促により、書こうと思い立ちました。拙い文章ではありますが、読者の疑問にお答えするとともに、『豊子愷「絶筆」の研究』の補足をし、関係者の皆様の更なる研究の参考につながればと思います。
曾有讀者提出,自1975年9月15日豐子愷逝世以後,爲何45年來對他的“絕筆”一直未有人去解讀?
或許有專家學者,包括豐子愷家人曾分析過其中的含義,只是不知從何處落手。因此,這張紙上或字或畫就成了謎團。
かつて読者から、1975年9月15日に豊子愷が亡くなってから45年の長きにわたるまで、どうして誰一人「絶筆」の謎を解読しなかったのか、と質問されました。
専門家や学者、豊子愷の家族も、その含意を分析してきたのですが、おそらくどこから手をつけてよいかわからなかっただけなのです。ですから紙の上に書かれたものが文字なのか絵なのかということも謎となってしまったのです。
豐子愷“絕筆”首筆位置
多年來,人們都被這張紙上圖形認知位置給顛倒了。從網上我們也可以看到,2020年10月以前的這張“絕筆”呈現給讀者的位置是這樣的(見上圖)——紙上的原有的是直綫條,似乎軟筆書法用紙,給人感覺是竪寫的格式。這樣就造成看“絕筆”中的圖形像是三處“不成方圓”的圖形。
如是以上述的位置理解的話,則解讀的角度被誤解了,即偏離了解開這幅”絕筆”前提的正確方向。
事實上,當年(即1975年9月10日期間),當豐子愷在寫這張“絕筆”時,可以推定,病床周圍的人幷沒有注意到他,手拿著這張紙的位置,當其中一人接過這張紙後,一下子也看不懂什麽內容。推測一下,當時身邊人幷未詢問豐公——你第一筆是怎麽寫的……。
而豐公由于患的是肺癌,已講不出話了,故,這張“絕筆”的謎底一直深埋到2020年清明節前。
爲了解析這首筆的位置問題,筆者用了三個多小時,從各個角度去分析……,直到當天晚上,由豐子愷外孫女楊朝嬰發來了一張更爲清晰的同內容圖片後,發覺這張“絕筆”上有一個“訂書針”痕迹時,方才解開了豐子愷首筆,幷非原先的包括在網上看到的那幅一樣,而應該是一頁練習本上的紙張,圖案分上下兩個物像。這樣首先解開了這張“絕筆”首筆位置謎團:非文字,而是一張漫畫!
豊子愷「絶筆」の位置
長年にわたり、人々は皆紙の上に書かれた図形を認識する向きを間違えていたのです。WEB上でも見ることができるのですが、2020年10月以前にこの「絶筆」を読者に提示していた向きはこのようなものでした。(写真参照)——紙には元々罫線が施してあり、毛筆書道の用紙のようだったので、見た人は皆縦書きの書式だと思い込んだのです。こうして「絶筆」に描かれた図形は三か所の「丸にも四角にもならない」ぐちゃぐちゃした図形と見なされたのです。
上述のような位置で理解しよとすると、読解する角度を間違えてしまい、「絶筆」を読み解くべき正しいな方向から遠ざかってしまうのです。
実際に、当時(つまり1975年9月10日ころ)、豊子愷が「絶筆」を書いていたとき、病床の周りにいた人は誰も彼が手にどんな向きでその紙を持っていたのかに注意を払っておらず、その中の一人がその紙を受け取った直後でさえどんな内容か分からなかったのだと推定されます。推測してみましょう、当時周りにいた人は豊さんに聞かなかったのでしょうか——最初の一筆はどうやって書いたの?……と。
しかし、豊さんが患っていたのは肺がんであり、すでに話ができる状態ではありませんでした。ですからこの「絶筆」の謎は2020年の清明節の前までずっと奥深いところに埋もれていたのです。
筆者は書き始めの位置を解析するために、いろんな角度から分析をし……、三時間以上を費やしました。その日の夜、豊子愷の孫娘に当たる楊朝嬰さんから同じ内容の、さらに精細な画像データが発信され、その紙に一か所「ホチキス」の跡があることに気づいて豊子愷の書き始めについての謎がようやく解けました。WEB上で見られた元々の画像とは違い、書道用紙ではなく、ノートの一ページで、図案は上下に二つの物が描かれていると見るべきだったのです。こうしてまずこの「絶筆」の書き始めの謎が解明されたのです。これは文字などではなく、一枚の漫画だったのです!
“絕筆”中爲何不直接點名
許多讀者發來微信詢問——如是豐子愷關切的事或人,那麽,他爲何不直接用文字寫出姓名呢?按讀者的想法,這張“絕筆”若是文化藝術繼承人、接班人之類的囑托,直接寫出第二代或第三代中的姓名即可。
作爲中國漫畫奠基人豐子愷,同時又是一位享譽中外的教育家,在育兒方式上自有他獨特之處。在他50歲,即1947年時,他在杭州與子女立下“約法”六條。引用豐子愷後人的話來說——從這份約法中不難看出,豐子愷給兒女平等的愛,鼓勵子女獨立,其中不少超越了舊中國“養兒防老”的觀念。
這裏完全不見男尊女卑、厚此薄彼陳腐觀念,他鼓勵子女們成人獨立,融入社會,健全完整人格來擔當應盡責任。
同理,豐子愷對待第三代的孫輩們依然是以上述思想貫穿其中,只是在人生關鍵時刻讓他再說點什麽時,他的筆觸引出了——幼孫豐羽,想再看一看,或許還有對他的囑托……
「絶筆」でなぜ直接名前を書かなかったのか
微信(訳者注:WeChatとも呼ばれる中国のSNSプラットフォーム)にはこのような質問が多くの読者から寄せられました。——もし豊子愷が大事に思っている事や人のことなら、どうして直接文字で名前を書かなかったのか?
読者の考えは、この「絶筆」がもし文化・芸術の継承者、後継者に関する依頼であったとすると、直接子供世代や孫世代の名前を直接書けば済むというものです。
中国漫画の創始者である豊子愷はまた、国内外で評判の教育者でもあり、子育てについて独自の方法論を持っていました。彼が50歳の時、つまり1947年に、彼は杭州で子供たちと六つの「誓い」を立てました。豊子愷の子孫の話を引用すると——この誓いからは、豊子愷が息子や娘に平等に愛情を注いだこと、子供たちの独立を奨励したこと、「養児防老」(訳者注:老化防止のために子育てをすること)といった古い中国の概念を超越していたことが易々とみて取れます。
ここには男尊女卑やえこひいきといった古臭い観念は見られません。彼は子供たちが成人し、独立して社会に関わり、健全に人格を完成させ、果たすべき役割を担うことを奨励しています。
同じように、豊子愷は孫の世代にも上述のような思想を貫いて向き合いました。ただ、人生の大事な局面で何か言わなくてはならないとき、彼の筆先が生み出したのは——孫の豊羽、もう一度会いたい、彼に頼んでおきたいことがある……
“絕筆”中一片羽毛的依據
有讀者又問,如果豐公此時此刻想念幼孫,想再看一看豐羽,可以直接點明嘛,或者用手勢比劃一下……,這裏豐子愷設置了一個懸念,自有他的道理。
這就引出了另外一個問題,也就是讀者最關切的——“絕筆”中上方像一個“回形針”之類的物像,爲何是一片羽毛,而非其他?
「絶筆」中の羽毛の根拠
また、ある読者から、豊さんがまさにその時孫のことを恋しがり、豊羽に会いたかったのなら、直接名前を書けるでしょ。あるいは手でゼスチャーをするとか……。豊子愷はある懸念を抱いていました。そして彼には彼の考えがあったのです。
ここでまた一つの疑問が生まれます。読者の最も気にしているところ——「絶筆」の中の「クリップ」のようなものの形。どうしてこれが一片の羽毛で、ほかの物ではないといえるのか。
之前,筆者在對“絕筆”之考究中,曾對初次看起來像一枚“回形針”之類的小物像做過多角度假設:頭髮、樹葉、雪片、浪花、雲朵等等,不過,最終結合“絕筆”中其他綫條綜合分析後,均被一一排除。原因在于——
這,在一個孩子頭頂上小物象,幷非是孤零零的一簇頭髮。結合下方綫條來看,無論是男孩還是女孩,髮際形狀套不上。如果是一頂兒童絨綫帽來推斷的話,則符合豐公當時在上海長樂村“日月樓”書桌上一直放置的豐羽五個半月時照片,豐羽就是戴著這頂絨綫帽,與豐公“絕筆”中的同位置綫條能對應起來。
這片羽毛又引出下方一條淡淡的虛綫,似乎當時豐子愷畫好後,又用手輕輕地塗抹過,他在思索如何表達更恰如其分……。
前文已提到過,豐子愷曾寫過一個“約法”,他對子女的愛都是平分的,除非有特別約定外。而這張“絕筆”是在他彌留之際,帶著十分迫切的心情要見幼孫的前提下寫的,其中不可能不包含有遺囑的成分,即:誰來接我豐子愷文化藝術的班的想法。
在距今74年前,豐子愷曾拜訪過梅蘭芳,一位是中國漫畫鼻祖豐子愷藝術大師,一位是中國京劇“伶王”梅蘭芳戲劇大師。這一場景在豐子愷散文《訪梅蘭芳》中有詳細記載,其中有一句話可以回答這裏的一問——“生命短,藝術長”。
他十分清楚,自己疾病纏身,又是在燭光燃盡之時,此刻他更有一種交代身後事的强烈願望。不過,在第二代就在身邊時候,他不可能直接講明,繞過你們第二代,把這接力棒交給第三代豐羽等人手上,因此,他用了一個委婉而又藝術化的漫畫手法,挑選出第三代中年齡最小的一位,作爲他當時難以言喻的想法。
先に筆者が「絶筆」について研究をしているとき、この初見では「クリップ」のように見える小さい物について、様々な仮説を立てました。髪の毛、木の葉、雪、白波、雲などなど。しかし最終的に「絶筆」の他の描線と合わせて分析をして、一つ一つ排除していくこととなりました。原因は——
この、子どもの頭上にある物は髪の毛などではありません。下にある線と組み合わせたとき、それが男の子でも女の子でも実際の髪型に当てはまりません。もし子供用の毛糸の帽子だと推定すると、豊さんが当時上海の長楽邨の「日月楼」のデスクにずっと置いていた豊羽が五か月半のときの写真と一致します。豊羽はまさにこの毛糸の帽子をかぶっていたのであり、豊さんの「絶筆」の同じ位置の描線とも対応させることができます。
この羽毛から下の方にかけて一本の薄い線がつながっています。当時豊子愷が絵をかき終わったあと、手で軽く描き、どのようにすればしっくりくる表現になるかを模索していたのと似ています。
前に取り上げた、豊子愷がかつて書いた「誓い」には、子供たちに対する愛は特別な約束を除いて平等なものでした。しかし、この「絶筆」は彼のいまわの際で、差し迫った思いで孫に会いたいという気持ちの下に書かれたものです。ですから遺言のような成分が含まれていないわけがありません。すなわち、誰がこの豊子愷の文化・芸術を受け継ぐのかという考えです。
今を去ること74年、豊子愷は梅蘭芳を訪ねたことがあります。片や中国漫画の創始者である芸術の巨匠豊子愷、片や中国京劇の「玲王」である戯劇の巨匠梅蘭芳。この場面は豊子愷の散文『梅蘭芳を訪ねる』に詳しく記載されていますが、その中にこの問題の答えとなる一節が書かれています——「芸術は長く、人生は短し」
彼ははっきりとわかっていました。自分が病を得、ろうそくの灯がまさに燃え尽きようとしているということを。その時、彼は自分の死後のことを引き継いでおきたいという強烈な願望を持っていたのです。しかし子供世代が彼の周りにいるときに、子供世代を通り越して孫の世代の手にこのバトンを受け渡すと直接明言することはできなかったのです。そこで、彼は婉曲的で芸術的な漫画の手法を使って、孫の世代の一番若い一人を選び出し、当時の言葉にできない気持ちを伝えたのです。
豐子愷接班人:豐羽爲代表的豐公第三代全體
豐子愷爲其第三代孫輩們取名別出心裁。除了幼孫豐羽單名外,其他名字大多以後鼻音的押韵。原來他爲孫輩取名,與日月星辰同輝,與萬物自然有緣。
按名字筆劃數字來排列,豐羽的“羽”字僅六個筆劃,毫無懸念,豐羽首當其衝。其實,豐公在幼孫出生後就有這樣的期盼——以豐羽爲代表的豐氏家族第三代所有孫輩們,是豐子愷文化藝術的繼承人和接班人!
這樣,既傳承了豐氏家譜的史料,又顧全了豐公文化藝術“基因”一脉相承,代代延續……。這就是豐子愷未在“絕筆”中直接挑明的原因所在,他用一根淡淡的虛綫緩緩地下垂,引出無盡地聯想……
這裏整理出除豐羽單名外,豐子愷孫輩其他人名字——東明、櫻時、立雲、朝嬰、南穎、意青、菲君、春楊、子耘、菊文、雪君、華文、立星、河清。
——寫在電影《豐子愷》上映前!
20210701定稿于上海(近1800字)
豊子愷の後継者:豊羽を孫世代全体の代表として
豊子愷は孫世代の命名に工夫を凝らしました。豊羽の一人の名前の他にも、その他の名前もほとんど後鼻音で押韻するようにしました。彼は孫たちに名前を付けるにあたって、日月星辰と同じように輝き、自然の万物に縁のある文字を使いました。
名前の画数の順に並べると、豊羽の「羽」は六画しかないので、疑う余地もなく一番先頭に躍り出ます。豊羽を代表とするすべての豊氏の家族の孫世代を、豊子愷の文化・芸術の継承者・後継者とする——豊さんは一番幼い孫が生まれた時からこのように待ち望んでいたのです。
こうして、豊氏の家系に関する史料を引き継ぐだけでなく、豊さんの文化・芸術の「遺伝子」をすべて傷つけることなく守り、代々継承していく……。これこそ豊子愷が「絶筆」の中で直接真相を明らかにしなかった原因のありかです。彼は一本の淡い線でゆるゆると書き進め、尽きせぬ連想を引きおこしたのです。
ここに豊羽以外の孫世代の名前を整理しておきます——東明、櫻時、立雲、朝嬰、南頴、意青、菲君、春楊、子耘、菊文、立星、河清。
——映画『豊子愷』上映前に書く
2021年7月1日上海にて決定稿
作者簡介:
莊寅亮,著名筆迹鑒證專家、
上海豐子愷研究會會員。
文/荘寅亮(中国筆跡鑑定専門家;上海市豊子愷研究会会員)
2021年8月19日