北澤樂天:影響子愷漫畫的第三人
北澤楽天:豊子愷に影響を与えた第三の人物
一般認爲,豐子愷先生漫畫風格的形成主要受到兩位日本畫家的影響,那就是竹久夢二和蕗谷虹兒。其實,開創日本漫畫先河的日本畫家北澤樂天,也在相當大程度上影響了豐先生的漫畫創作。說到對豐子愷的影響,如果說蕗谷虹兒只是在漫畫的技巧和筆法上影響豐子愷,那麽,北澤樂天是在漫畫創作的內容與構思上,而竹久夢二則是在漫畫創作的內容、構思、技巧與筆法上對子愷漫畫産生總體上的影響。
一般に、豊子愷先生の漫画のスタイル形成に影響を与えたのは主に竹久夢二(たけひさ ゆめじ 1884~1934)と蕗谷虹児(ふきや こうじ 1898~1979)の二人だと言われています。しかし彼らだけではなく、日本漫画のパイオニアである北澤楽天(きたざわ らくてん 1876~1955)も豊子愷先生の漫画に多大な影響を与えているのです。
蕗谷虹児が豊子愷に与えた影響が技巧と筆づかいであったとすれば、北澤楽天の場合は漫画の内容と構想でした。竹久夢二は技巧、内容を含め全体的に豊子愷の漫画に影響を及ぼしたと言えるでしょう。
邂逅北澤樂天
豐先生是什麽時候開始接觸到北澤樂天的漫畫,沒有相關記錄,似很難考證。但可以肯定的是,在豐子愷1933年建成的緣緣堂裏,就有九卷本《樂天全集》。這是從日本進口的原版圖書,豐先生的孩子們大多看不懂,所以他經常要給他們講述這些漫畫的內容,和孩子們共同閱讀。
北澤楽天との出会い
豊先生はいつ北澤楽天の漫画に触れたのでしょうか?記録が残っていないため正確なことはわかりませんが、豊子愷先生が1933年に建てた縁縁堂には九巻本の『楽天全集』があったことは間違いありません。この全集は日本から輸入された原書だったので、豊先生の子どもたちには読めません。そこで先生はよく子どもたちのために漫画の内容を語って聞かせていました。
再向前推,似也可以看到北澤樂天的身影。1927年豐子愷爲他的恩師夏丏尊先生的翻譯作品《國木獨步集》設計的封面,那屋頂上頗爲誇張的猫咪,以及上個世紀二三十年代豐先生爲雜志畫的題頭畫,與《樂天全集》裏猫咪的畫面,也有異曲同工之妙。這是豐先生在日本“遊學”時讀過《樂天全集》嗎?
さらに時代をさかのぼっても豊子愷の作品に北澤楽天の面影を見てとることができそうです。1927年に豊子愷は彼の恩師である夏丐尊(か がいそん 1866~1946)が翻訳した『国木田独歩集』のために表紙をデザインしました。そこに描かれている屋根の上のデフォルメされた猫や、1920~30年代に豊先生が描いた雑誌のタイトル画も『楽天全集』の中の猫と似た味わいがあります。豊先生が日本に「遊学」していた時に『楽天全集』を見ていたということなのでしょうか?
※写真左:北澤楽天の漫画に豊子愷が翻訳を描き込んだもの「日曜は母の休日ではない」
※写真右:豊子愷の漫画「日曜は母の悩める日」
再遇北澤樂天
再次遇到《樂天全集》,已是上個世紀五十年代。經歷千辛萬苦,豐子愷一家又回到了江南,並在上海盧灣區“頂”下一棟三層小樓安居。這時候,豐先生的孩子們大多已參加工作,並有了第三代。
北澤楽天との再会
再び『楽天全集』と出会うことができたのは、1950年代に入ってからのことでした。艱難辛苦をへて、豊子愷一家はようやく江南地方に戻り、上海の蘆湾区に三階建ての小さな家も手に入れ、穏やかな日々を過ごしました。その頃には豊子愷の子供たちの多くはすでに仕事についており、孫もできました。
在豐家,逢年過節以及休息日,子女們常常回到豐子愷身邊,大家不免回憶起以前緣緣堂時期的天倫之樂,也回憶起了在緣緣堂聽豐先生講述漫畫《樂天全集》裏的有趣故事。這時豐先生又萌發了購置全套《樂天全集》的想法。至於是在上海外文書店訪得,還是托日本友人代購,已無法考證。但在上海豐寓,確實有全套的《樂天全集》,而且豐先生爲了讓第三代的兒童讀懂這些漫畫,他還作了翻譯。
豊先生の家では、年越しや休みの日になると子供たちは豊子愷のもとに集まりました。そうすると、思わず縁縁堂で過ごした団欒の日々が思い起こされ、豊子愷先生が語り聞かせてくれた『楽天全集』の面白いお話の話題になるのでした。そこで豊子愷先生はもう一度『楽天全集』全巻を手に入れようと思うようになったのです。上海外文書店で取り寄せたのか日本の友人に送ってもらったのかは定かではありませんが、上海の豊家には確かに『楽天全集』全巻が揃っており、豊先生は孫たちにも読めるよう翻訳までしています。
一開始,豐子愷是在一本練習簿上寫下一個個漫畫故事的,但讀起來很不方便,他便直接翻譯在書的頁邊。就這樣,豐寓一樓客廳裏的一長排《樂天全集》就成了豐家第二代和第三代最愛讀的書。原本讀著漫畫一知半解,只要看一下豐先生的“文字點撥”,便全懂了。畫集中各有特性的人物,如財主海諾、無産者胎諾、說謊專家霍拉、方下巴拿喜老等,都是孩子們耳熟能詳的漫畫人物。
初めはノートに一つ一つの漫画のストーリーを書いていたのですが、それだと読みにくいので直接それぞれの漫画のわきに書きつけるようになりました。こうして豊子愷邸の客室に並んだ『楽天全集』は子どもや孫たちの愛読書となりました。原書を見ただけではよくわからなかったところも、豊先生の「文字ガイド」のおかげで理解することができます。画集に出てくるブルジョワの「丙野茂平治大尽(へいのもへいじだいじん)」、プロレタリアの「丁野抜作(ていの ぬけさく)」、うそつきの「洞尾吹三(ほらお ふくぞう)」、エラの張った「金輪梨郎(かねは なしろう)」などの個性豊かなキャラクターは、どれも子供たちのお気に入りのキャラクターでした。
劫後餘生
1966年“文革”大爆發,對於豐家來說可是一場大災難。一開始是在豐子愷任院長的上海中國畫院貼出大字報,批判他的隨筆《阿咪》:文中按作者家鄉習俗,稱阿咪“猫伯伯”,大字報說這是“影射偉大領袖毛主席”。
厄災から生きのびたもの
1966年に「文化大革命」が巻き起こったことは、豊一家にとって大きな災難でした。豊子愷が院長を務めていた上海中国画院には「大字報(罪状を告発する壁新聞)」が貼り出され、彼の随筆『猫』が批判されました。文中で作者の郷里の言い方に従って猫を「猫伯伯」と呼んだところ、壁新聞に「偉大なる指導者毛主席を暗に揶揄している」と書かれたのです。
緊接著就是抄家。豐子愷自從抗戰逃難,把故居緣緣堂裏的數萬册圖書,以及吳昌碩的《梅花圖》,弘一大師書寫的《華嚴經偈》等悉數留下,結果均毀於日軍炮火,自此,他不再有收藏的興味。豐寓日月樓除一些常用的工具書和一些兒童讀物外,並沒有很多藏書。那麽,哪裏是這一整套豐譯《樂天全集》最終去向?
続いて起こったのは家の接収でした。豊子愷は日中戦争時に、旧居である縁縁堂に残していた数万冊の本や呉昌碩の『梅花図』、弘一大師の書いた『華厳経偈』などをすべて日本軍の砲火に焼かれて以来、物を収蔵することに興味を示しませんでした。豊子愷邸である日月楼には普段使用する工具書といくらかの児童書の他にそれほど多くの蔵書はありませんでした。では豊子愷訳の『楽天全集』全巻は最終的に一体どうなったのでしょうか?
這套《樂天全集》有兩本保留了下來——第七卷“資産階級與無産階級”和第九卷“女性百態”,當時因爲喜歡閱讀的孩子多,休息日在豐寓閱讀還嫌不够,經常會借閱,帶回各自家裏閱讀。正是因爲這種借閱,這兩本正好被大女兒豐陳寶和二女兒豐林先借閱,所以保留了下來。至於另外七卷,很有可能就是抄家時給順走了。因爲即使住房受到大幅壓縮,有豐先生翻譯的這套書是不會自行清理掉的。而抄走的理由,一個“封資修”的“資”字就足够了。
『楽天全集』は第七巻「ブルプロ漫画集」と第九巻「女百態エログロ漫画集」の二冊だけが生き残りました。当時子どもたちの多くが読書好きで、休日に豊子愷の家で読むだけでは飽き足らず、よく借りて帰ってはそれぞれの家で読んでいました。この二冊も長女の豊陳宝と次女の豊林先が持ち帰っていて運よく生き残ったのです。その他の七冊は家の接収の時に持ち去られたのでしょう。住む場所を大きく奪われたとしても豊先生が翻訳したこの本を自ら処分してしまうわけがありません。当時批判された「封(封建主義)、資(資本主義)、修(修正主義)」のうちの「資」一字だけで持ち去るにたる理由だったのです。
子愷漫畫與樂天漫畫
因爲兩次擁有並且還翻譯過《樂天全集》,豐子愷深諳北澤樂天的繪畫技巧與漫畫的思想內容。他時常會把北澤樂天繪畫的內容拿來再創造,比如,同樣是《風雲變換》,北澤以六幅動態變化的畫面來演示,而豐子愷時而采用的是單幅優美的畫面,時而又采用四格漫畫的形式,演化出“愛”、“吻”、“恨”、“咬”四個畫面。
子愷漫画と楽天漫画
『楽天全集』を二度にわたって所有し、翻訳までしたこともあるため、豊子愷は北澤楽天の作画技巧や漫画の内容や思想を深く理解していました。豊子愷はよく北澤楽天の作品の内容をリメイクしました。例えば楽天の『雲の変化』という作品では六枚で雲の動きを表現しましたが、それを豊子愷は、時には一枚の絵で、また時に四コマ漫画の形式で表現し、「愛(愛)」「吻(キス)」「恨(恨む)」「咬(噛む)」の四つの画面に進化させました。
其他類似的畫面還有很多。豐子愷靈活運用北澤樂天的題材,加以進一步引申、深化。借用北澤樂天開創的四格漫畫形式,豐子愷也創作出了不少繪畫作品。唯獨北澤樂天的“氣泡對話”形式,豐子愷並沒有予以借鑒。用以點題的那些必不可少的文字,豐先生大多在作品的名稱裏加以解决。可以說這就是子愷漫畫的一個獨特之處。豐先生曾經常說到:“最喜小中能見大,還求弦外有餘音”,“意到筆不到”,他的漫畫是這樣,他漫畫的畫題也是這樣,所用的筆墨,所寫下的文字,能少盡少,而把更大的想像空間留給讀者。
その他にも似たような例が数多くあります。豊子愷は北澤楽天の題材を自在に活用し、進化・発展させました。北澤楽天が始めた四コマ漫画の形式を借りて多くの作品を生み出しました。しかし北澤楽天の「吹き出し」による会話を参考にすることはありませんでした。内容をとらえた必要最小限の言葉で作品名にすることでそれに代えたのです。そして、それこそが豊子愷漫画のもつ大きな特徴ということができるでしょう。豊先生はよく「最喜小中能見大,還求弦外余音(小さなものの中から大なるもの(真理)を見つけることが最も好きで、さらに音のしないところに余韻を求める)」「意到筆不到(筆で描かれていないが思いは伝わる)」という言葉を使いました。彼の漫画も、彼の絵のタイトルもまさにその通りで、描いた絵筆や書いた文字も可能な限り少なくして、さらに大きな想像の余地を読者に与えるものとなっているのです。
編者按:《樂天全集》於1930年出版,全套共有九卷,但第四卷和第八卷是未曾出版過的。
作者: 楊子耘
譯者:植中政之
編輯: 吳梓茵
著者: 楊子耘
翻訳者:植中政之
編集: 吳梓茵